児童ポルノ法のイラスト規制は是か?

児童ポルノ法改正によって、18歳未満と思われる人物を描き、なおかつそれが性的興奮を誘発するような場合、イラストが規制させるかもしれない。
私はこれに反対だ。だが、私はネット上でのロリコンの意見を代弁するのではなく、幼女の卑猥な図画と幼女への性的暴行の間に因果関係が認められないことを証明する。なお、ここでは「オタク」という語をアニメ・ゲームオタクに限定して使用し、性の対象が女性の場合について考察する。


そもそも児童ポルノ法、正式には児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律は、18歳未満の少女が強制的に性風俗業に従事させられることを防ぐことに重点を置くべきなのだ。量刑のある法律には、加害者と(想定される)被害者が存在しなければならないためである。従来の児童ポルノ法の場合、被害者はポルノ撮影に従事させられる少女、加害者は撮影者である。両者合意の上ならいいじゃないかという考えもあるが、日本では18歳にならないと性行為自体規制されるのだからしょうがない。が、ここでは論点とは異なるのでこの問題は割愛する。


実際のところ、被害者のいない刑罰は多く存在する。銃器・刀剣の所持、スピード違反や飲酒運転、凶器準備集合、直接的な被害者の有無で考えればカルテルの形成を初めとする独禁法違反もいるかどうか怪しい。が、これらの行為を許せば、社会に大きな害悪をもたらすのは言うまでもない。


だとすれば、幼い子供のセクシャルな絵を所持することを違法化するなら、児童ポルノ(イラスト)の所持と性犯罪の間にある相関関係を立証しなければならない。


しかし、世間の多くの人は、多くの人にとって、「児童ポルノ(イラスト)の所持者→性犯罪者(予備軍)」という命題を真だと思っている。おそらく、その世論を形成したのは宮崎勤の事件であろう。宮崎勤の事件はセンセーショナルで、マスコミのオタク叩きは容赦のないものだった。「オタク」という語が宮崎勤の事件で有名になった事実を鑑みて、その報道が世間の「ロリコン」に対する嫌悪の土台になっていることは言うまでもないだろう。


しかし私は、その命題が偽であると信じている。そこで、背理的な反証と演繹的な反証の2種類を行いたいと思う。


まず、背理的反証を行おう。「児童ポルノ(イラスト)の所持者→性犯罪者(予備軍)」という命題が真ならば、昨今のいわゆる「萌え」産業の肥大化ペースに見合った比率で、オタクによる性犯罪が増加していなければならない。が、そんなことはないだろう。警察白書によれば、平成14年から平成18年まで、強姦・強制わいせつの認知件数はともにほぼ横ばいとなっている。(参考:平成19年度版警察白書http://www.npa.go.jp/hakusyo/h19/toukei/t1-04.pdf)
この発生件数のなかで、逮捕者の年齢層だけ大きくシフトしたなどとはとても考えにくい。


揚げ足を取られないように言っておくが、私は「萌え」文化≒「ロリコン」≒「児童ポルノ」という大雑把な見方をしている。しかし多くのオタクが幼女と性行為を行うようなエロゲーをプレイしている現状からみて、この視点は議論の骨子を揺るがす程の誤謬を孕んではいないだろう。


つまり、「萌え」産業が肥大化し、児童ポルノ(イラスト)の所持者が増加しているのもかかわらず、強姦・強制わいせつの認知件数は増加していない。
したがって、児童ポルノ(イラスト)の所持が性犯罪を誘発することはないのである。



以上が背理的な反証であったが、今度は演繹的な反証をしたいと思う。ここでは児童ポルノ(イラスト)の所持が性犯罪を誘発することはないことの理由を証明することが必要である。


オタクが愛好する絵は、萌え絵と呼称される、目の大きく、口の小さいキャラクターである。描く側に回ればわかるのだが、僅かな表情の差で感情を表す「リアル」なキャラクターより、オバケみたく目の大きいキャラクターの方が表情を描き分けやすいのである。いわゆる「記号」なのであるが、詳細な論述を行うことは私には不可能なので、Iwatamの何でもコラム「萌えと記号」を参照してただきたい。というより、この人の児童ポルノ法批判の方が私より何倍もいいのだが、挫けず進めていこうと思う。


ただ、萌え絵が記号であるということについては少し説明せねばなるまい。
例えば、表情にはいくつかのパターンがあり、それに従えば単純な表情なら割と簡単に描ける。つり上がった眉は怒りを表すし、目を閉じて口を逆三角形に開けば笑いが作れる。顔に斜線を入れて照れ顔を作るなどは、記号化の端緒な例だろう。
私自身、猫耳やメイド服やスク水の記号内容がわからないので、服飾やアクセサリーについてはここでは言及を避けるが、萌え絵の大きな特徴である顔が記号化されていることを示した以上、あとは前出のコラムを読んで貰いたいと思う。


要するに、オタクが愛好する世界はその視覚イメージにおいて記号化されているのである。記号化によって、表現=内容という等式は必ずしも成立しなくなる。これは暗喩の例をとってみても明白である。暗喩とは、対象物の記号内容の多義性に立脚したレトリックであるからだ。


つまり、イラストで描かれた児童ポルノは一種の記号であり、その記号内容は記号表現と必ずしも一致しない可能性があるのだ。


この「イラストで描かれた児童ポルノは一種の記号であり、その記号内容は記号表現と必ずしも一致しない」という命題を証明するために、1980年代ごろから日本社会を覆ったアイドル全盛期の心理的メカニズムを解説しよう。両者の因果関係は後々説明する。


1970年代終盤から1980年代中盤は、アイドル全盛期だった。アイドルは女の子にとってあこがれであり、男の子にとって聖女だった。そして何より、アイドルは何より「かわいい」存在であり、重要なのは処女性なのである。キャンディーズの「普通の女の子に戻ります」発言は、処女性の破棄であると取れる。アイドルの処女性の重要さを如実に表すのは、1990年代最後の清純派と呼ばれた広末涼子の結婚に対する男達の反応ではないだろうか。


だが考えて欲しい、結婚したって、必ずしも性行為をするとは限らないし、アイドルが性行為をしないというわけでもない。
そこで注目すべきなのは、「アイドル」という一種の記号である。英語の"idol"とは本来偶像の意である。偶像崇拝とは、偶像に御利益という記号内容を付与して祀ることだ。
同様に、「アイドル」という偶像には、「未婚(恋愛的にはフリー)であり、かわいい」という記号内容が付与されているのではないか。また、恋愛的にフリーであることで、アイドルは誰かの所有物となることを回避している。しかしその反面、全てのファンは誰の物でもないアイドルを自分の物にすることを夢想する。筆箱にアイドルのブロマイドを入れるなどといった行為がその心理を表しているだろう。


そして、1980年代のこのアイドル信仰と同じような思想が、昨今の「萌え」業界にも流れているのではないかと思う。1980年代の「アイドル」を昨今の「幼女」に置き換えれば、「処女でかわいい」という記号内容の共通項が抜き出される。大衆の好みの基本原理なんてそうそう変化しないのだから、「処女でかわいい」女性を嗜好する原理が貫かれていたとしても全く不思議ではない。


つまり、アイドルも幼女も男性の独占欲を発散させるための記号なのだ。独占欲を向けさせるのは「処女→誰の物でもない」の一語であり、その方向性を盤石にするのが女性の「かわいい」という魅力なのである。


イラストの幼女の性行為とは、幼女という誰の物でもない存在を、性行相手の男性を自己に同一化して独占するプロセスであり、その根底にあるのは女性全体に対する独占欲である。そして、女性に対する独占欲は、多かれ少なかれどんな男でも持っている。
したがって、イラストの幼女の性行為は、幼女嗜好の記号表現ではなく、女性全体への独占欲の記号表現なのであり、欲を強めるのではなく発散させる。


その倒錯性から問題視されがちなイラストの児童ポルノであるが、それは女性全体への独占欲の記号表現が先鋭化した形であり、その源流は1980年代のアイドル全盛期にも見て取れる。
したがって、問題はないのである。


問題にしている人たちこそ、記号表現=記号内容としか理解できない危険な人種ではないだろうか?




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