デカルトは哲学の基礎ナリ?

近現代の西洋哲学を語る上で、デカルトの存在は欠かせません。まあ、管理人は『方法序説』を読んではいないんですが。
cogito, ergo sum.(我思う、ゆえに我あり)という名言で知られる彼ですが、やっぱり偉大なわけで、哲学の森に分け入ろうとした管理人は今まさにデカルトを読む必要性を感じているわけです。


デカルト以降の哲学は、多かれ少なかれ、肯定的であれ否定的であれ、デカルト的な思想に少なからず影響を受けているような印象を受けます。専門的に哲学を学んだわけではありませんが。
要するに、「デカルト」そのものが近現代の哲学における一種のモードと言いますか。直接的関係がなくとも、デカルトを読まないと始まらないような印象を受けたわけです。


「なぜそう思ったか」ですか? 白川静の漢字百話を読もうと思ったら冒頭からソシュールで少し戸惑ったので……
書き言葉に対する話し言葉の優越はプラトン以来連綿と続くヨーロッパ哲学界のモードみたいなもんですが。


とにかくまあ、『方法序説』を読もうと思ってるわけです。
友人が「読んでてよかった」と言ってましたし。


要するに、デリダとかソシュールとかフーコーとかラカンとか読みたいので、基礎知識としてデカルトを学ぼうと。
そういう他愛もない意思表明だったりします。


それだけで一記事ってのも何か酷い気がするので、ここから本論に……入るのか?


次回予告
10代からはじめる哲学 第一篇 「デカルト」
夏頃公開予定……?


余談ながら、cogito, ergo sum.を正しいアクセントで発音するとコーギトー・エルゴー・スムだったりします。
まあ、"vita sexualis"を「ヴィータセクスアリス」とか読んじゃうチャンピオンREDいちごに連載されてる漫画に比べれば、「コギト・エルゴ・スム」という読みは遥かにマシですけどね。「ウィ」と読んだ鴎外に乾杯。


あ、ラテン語の"vita"って英語の"vital"に輸出されてるんだ。今気付いた。




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